日野商人

日野商人

 八幡商人にやや遅れて登場したのが日野商人です。琵琶湖岸から遠い日野にも、中世から日野市があり、蒲生氏の城下町として楽市令が布かれ、諸役免除の特典を与えられ、商工業が栄えました。蒲生氏郷の伊勢松坂や会津への領地替え以後も、蒲生氏と日野町民の関係は密接でしたが、寛永年間蒲生家の断絶により日野は一時活況を失いました。しかし、そのことが逆に奮起をうながし、地場産業の日野椀や売薬、帷子、小間物をもって全国へ行商することが盛んになりました。なかでも正野玄三の売り出した「万病感応丸」は携帯商品として大ヒットとなりました。いわば劣勢を逆用した日野商人の行商開始期は、江戸時代という社会が形を整えて回転し始めた時期であり、最初の繁栄期である元禄前後の地方の人々の生活向上の波に乗って商勢が伸展したのです。

 日野商人は諸国商品流通の便益を提供するものとして幕府の公認するところとなりました。日野商人は元禄3年(1690)、幕府による売掛代金の回収保証と東海道・中山道における特約旅館制度を二本の柱とする、日野大当番仲間を日野町の全商人を集めて結成しました。そして、主に東北・関東・東海道と、京阪の間を商圏としながら、行商と店舗開設による活動を広げていったのです。特に日野商人の店舗は、「日野の千両店」と呼ばれる、
出先の商人との共同出資(乗合商内)のかたちをとった小規模であるが沢山の店舗をかまえ、それを前進基地としていくことに特徴がありました。

万病感応丸
昭和5年の日野商人の出店の分布

中井源左衛門

中井源左衛門(日野商人)が残した「金持商人一枚起請文」には、後の子孫に対して以下のような言葉を残しています。
「金持ちになるのは決して運ではなく、酒宴、遊興、贅沢をせず、ひたすら長生きと始末することを心掛けて商いに励むことが、五万・十万両の金を溜める唯一の方法であり、貪欲な投機的商いは先祖の加護や自然の道理に見放され、結果的に成功には結びつかない。しかし、始末することとケチとは全く別のもので、ケチでは金持ちになれない。社会のために大枚をはたくときははたくが、無駄な金は使わず、世のため人のために生きる金を使い、飲むときは飲み、遊ぶときは遊ぶが、節度を持つことが必要で、金持ちになるためには、常に始末の心を忘れず、奢りの心を戒めなければならない」と記しています。

日野エリア

日野まちかど「感応館」へは、近江鉄道日野駅より、バス利用で西の宮下車すぐ 。

近江日野商人館

日野商人・山中兵右衛門の旧宅を資料館にしたもの。「八幡表に日野裏」の言葉どおり日野商人の屋敷は、表側は冨を誇示することなく厳格さとつつましい生活態度がよく現れています。館内には行商品や道中具、家訓などを展示。
料金/大人300円・小人120円、休館日/月・火曜日(祝日の場合は水曜日)、年末年始

日野まちかど感応館(旧正野薬店)

日野椀に代わり日野商人の行商の主力商品となった合薬「万病感応丸」の創始者正野法眼玄三の薬店。店内には薬製造の道具などが展示されているほか、喫茶コーナーもあり、観光案内の拠点施設となっています。
休館日/月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始

近江日野商人ふるさと館(旧山中正吉邸)

日野商人山中正吉家の本宅で、美しい庭園をそなえた数寄屋風書院造りの屋敷やモダンな洋間など見所がいっぱいです。座敷では日野の伝統料理をお召し上がりいただけます(予約制)。
入館料/300円、休館日/毎週月・火曜日(祝日の場合は水曜日)、年末年始

馬見岡綿向神社

日野町の最高峰である綿向山(標高1,110m)の頂上に鎮座していましたが、平安時代初期に現在の地に移され、蒲生上郡の総社として信仰を集めました。その後、当地を支配し城下町を築いた蒲生家が氏神として庇護し、さらに江戸時代、日野商人が出世開運の神として崇敬しました 。

◎日野観光協会 TEL.0748-52-6577